SpaceFわひね(wahine) 

一人ひとりが思いを、あるときは共有し、あるときは自由にたゆたう。。そんな場所をめざして 

2011年

09月11日

(日曜日)

半年、2つの11

今朝の毎日新聞のコラムは浜矩子さん

時代の風:犠牲者たる市民の力=同志社大教授・浜矩子
 ◇二つの「11」の教訓
 2011年9月11日。01年9月11日から10年。そして11年3月11日から半年が過ぎた。今日のこの日、9・11と3・11について、さぞかし、各方面で多くのことが思われ、語られ、書かれることだろう。
 
 9・11はいわずと知れたニューヨークのワールド・トレード・センタービル崩落の日。3・11はいうまでもなく東日本大震災の発生日だ。この両者を、ことさらに関係づけて語ろうとすることはこじつけだ。その気になれば、あれこれの共通点を見いだすことはできるだろう。だが、「11」の語呂合わせに魅入られるあまりに、妙な通底性を探り出そうとするのも、ちょっと危険かなと思う。

 そう言いながら、「11」合わせは、ある種の天啓かなと思ってしまう面もある。天警と言った方がいいかもしれない。このままでいいのか。これでいいのか。これしかないのか。そんな厳しい問いかけが、二つの「11」において激しく形をなした。そのように受け止めるべきかと自問する。

 かくして、思いがぐるぐる巡る中、気がつくことが二つある。その二つのことを表現するキーワードは、一に犠牲者。そして二に市民である。

 二つの「11」の大惨事において、犠牲となった人々には、何の罪もない。彼らはそこにいただけである。仮に、あの体当たりテロ攻撃が当時のアメリカの一国主義に挑発された行動だったにせよ、その犠牲者がすべて一国主義者だったわけではない。あの時、建物の中にいた人々も、そこに突っ込んだ飛行機の乗客たちも、皆、とてつもない巻き添えを食った。彼らが彼らとして、攻撃目標だったという話ではない。

 東日本大震災についても、しかりだ。その犠牲となったあまりにも数多くの人々に、何らかの当事者責任があったわけではない。津波の高さを甘く見積もったのは、彼らではない。原発事故を想定外に置いたのも、彼らではない。

 戦時においても、結局そうだ。痛み、苦しみ、死んでいく犠牲者の圧倒的多くは、暴力的なたくらみの首謀者でもなければ、交戦当事者でもない。彼らの犠牲から、痛烈な教訓を肝に銘じるべき人々は別にいる。それらの人々は、犠牲者たちの叫びとうめきから何を聞き取り、何を学ぶのか。

 9・11直後において、当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、「アメリカに味方しないものはアメリカの敵だ」と言い放った。そしてイラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」だと決めつけた。こんなケンカ腰から、何が生まれるのか。それは、新たな報復の連鎖でしかありえなかった。その連鎖をせき止めようとしたかにみえたオバマ大統領は、今、どのような構えで9・11後10年の世界と向き合おうとしているのか。それが次第に判然としなくなっている。

 3・11から半年がたった今、国難だなどと言いながら、日本の政治は何事もなかったかのごとく、茶番の「復興」に余念がない。仲間内の「ノーサイド」形成にやたらと力が注がれる中、一体誰が「被災者サイド」に立って物事を前進させていくというのか。

 震災後、日本は内向きになり過ぎていけない。そんな言い方もよくされる。だが、国難だというなら、そこに全神経が集中するのは当然だ。こんな時、政治が早過ぎる通常営業に立ち戻っていいのか。

 二つ目のキーワードが市民である。救いは市民にあり。この点では、二つの「11」に大いに共通点がある。

 9・11後のアメリカは、武力介入をてこに中東世界の民主化を進めようとした。イラクで、アフガンで。そして、それらの試みはいずれも結局のところらちが明かない。使命を終えたと称して、撤退するしかないという結果に終わっている。

 それに引き換え、今年の年初に中東・北アフリカを席巻した「アラブの春」の成果はどうか。むろん、これからどうなるという大問題はある。泥沼化が気掛かりな側面もある。だが、それはそれとして、蜂起した市民たちは独裁者を次々と追い詰めてきた。大いなる連帯の強固さを天下に示した。アメリカの武力が勝ち取り得なかった民主化。市民たちが、それを独裁体制の呪縛の奥底からもぎ取ってみせた。

 3・11後の日本においてはどうか。世界の称賛を浴び、その敬意と驚異の対象となったのは、まさしく、被災地の市民たちの姿であった。耐える彼ら。分かち合う彼ら。

 人は衣食足りて礼節を知るという。ところが、被災地の市民たちは最も衣食欠乏し、最も深い絶望のふちに身を置く中で、その礼節の根強さを世界に示した。最も自分のことしか考えられない時に、他人のことを考えた。自分の命が最も大切な時に、他人のためにその命を惜しまず捨てた。そこには、役割の仮面を脱いだ市民たちのすさまじく真摯(しんし)な素顔がある。

 蜂起した中東の市民たちは、独裁体制の犠牲者だった。世界をその礼節で驚嘆させた日本の市民たちは、震災と原発事故の犠牲者である。犠牲となる人々の市民的知性。それが救いをもたらす。これぞ、二つの「11」から受け止めるべきメッセージだ。


各地でこの日への思いが語られたことでしょう。

今夜、千葉の限られた範囲(中央区・花見川区・稲毛区)で
直下型の地震があり震度3にしてはドスンと来ました。
地震に対して妙な免疫?ができてしまって、危険に備える意識が
少しずつ鈍化していくにしたがい、
被災地への共感度も下がっていることが、情けない一方で
そういう人間の情理を踏まえた上で、仕切り直し続けていく術で
ゆっくり地味に動いていきなんとか折り合いをつけている日々。

そんなことを思いながら夜、なでしこジャパンの試合を見ると
ここにも政治の身勝手さを感じずにいられませぬ。
この夏日本を沸かせた、なでしこジャパンの一般市民への浸透はすごくって、
バイト先の先輩女性たちの昨今の話題はもっぱら女子サッカー!
試合の結果のみならず、
なでしこたちの今に至る努力がメディアでたっぷり語られているのか
(その辺はテレビ視聴が少ない私は門外漢)賞賛が熱いです。
彼女たちの奮闘への関心と、北朝鮮の選手たちへの同情が、
新しい団体競技ならではの、
各国の政治状況があからさまに影響する女子サッカーで
国の枠組みを超えて、政治が“女たち”をどう扱っているかを
知らず知らず意識することにつながっているような気がします。

コメント

●NO TITLE

なでしこジャパンのメディアでの取りあげられた方は目に余る。
「誰が料理上手か?」とか「得意料理はなに?」とか
男子サッカー選手だったら訊かれないだろうのぉ、、、
というようなことで盛り上がるメディアにウンザリ。

政治もメディアも、“女たち”を扱う方法は似ている。
女子サッカー界にとって結果を残すこと、注目されることが
次代につなげるためにも必須とわかっちゃいるが、
彼女たち自身が、燃え尽きないことを祈ります。

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