SpaceFわひね(wahine) 

一人ひとりが思いを、あるときは共有し、あるときは自由にたゆたう。。そんな場所をめざして 

2011年

06月30日

(木曜日)

アレクサンドリア

昨日から関東は猛暑日です

2~3日寝かせていたネタは少々暑苦しいか?と思いつつ・・・
先日都内二番館で見た映画の話。。。
ありがたい2本立てながら時間もなく、1本見ただけですでに目下抱える腰痛が
とにかく「アレクサンドリア」を見ることができた。

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あのアレハンドロ・アメナーバル監督がなぜアレクサンドリア?という懸念はあったもののハリウッド作品とは違うものだろうと、ある意味期待してみた。
やはり、ローマ帝国時代の歴史ロマン大作ではなくて
古代図書館で有名なアレクサンドリアに実在したとされる女性ヒュパティアに焦点を当てたもの。
天文学者・哲学者として図書館の蔵書を守り、かつそこに記される学問を、
文化や信仰を問わず弟子たちを受け入れて学問を講義し魅了していた。
(が、もちろん、彼女や彼女の父たち“市民”は、
自分たちが生きている社会が奴隷制の上に成り立っていることを当然の理としていて
“博愛”や哲学を説いている矛盾などにも自覚しているわけもない)

奴隷たちへの布教によって一気に隆盛になっていく当時のキリスト教は原理主義的で過激、映画では、主教はアレクサンドリアを支配するために、“聖書”の「女は外に出ることなく静かに内にいるべきだ」という文言を使って、ヒュパティアを“魔女”と呼び、断罪して見せしめとするように信徒に宣言する。史実ではヒュパティアは捕らえられされ生きたまま切り刻まれたという。
いつの世も生贄にされて陵辱されるのはまず女か・・・

庶民が圧制に抵抗する手段・救済されるための信仰に身を委ねてローマ帝国時代の多神教からユダヤ教やキリスト教イスラム教が優勢になり、いずれも原理主義的・排他的になっていく姿は現代の状況も変わりがない、
と、監督は、現代の衛星画像からアレクサンドリアにフォーカスしていく映像で語っているのか。

ヒュパティアの弟子たちがおのれの身を守るためにあるいはのし上がるために、苦悩しながらも変節し転向しあるいは解放されるために手段を問わず生き延びることを選んでいく時、ヒュパティアは自らの信念を曲げずあくまで譲らす貫こうとする、それが誰かを犠牲にするとしても。また、学問の神に身を捧げて独身を貫く決意表明として?月経血を吸わせた布を弟子たちにさらすシーンはイタイとはいえたじろぐ顔色失う弟子たちが痛快にも思えるが・・・その純粋な気高さや高潔はそれほど尊いのか?
映画では、彼女の奴隷の身からキリスト教信者となったダオスが、捕らえられたヒュパティアの尊厳を守るために、彼女が辱めを受ける前に気絶させる(息を耐えさせる?)。
奴隷のダオスこそ葛藤や紆余曲折を経ながらも最も人間らしい?あるいは救い主?
女性が“命”のためには名誉より屈辱も受け入れることを選んでいくように描かれる方が、私には納得いくけれど。。。
いくらおバカなわたしとてヒュパティア礼賛を期待するほどナィーブではないし、現代から批判的に観ることは論外だとは思うけれど、ヒュパティアのノー天気さに少しいらだつ自分にも腹立たしくもあり、なんとも落ちつかずモヤモヤは募るばかり。支離滅裂で言語不能・・・ぷしゅーっ

監督や主演のレイチェル・ワイズの歴史観にジェンダーの視点はどのように考えられているんだろうか・・・

映画評ではこちらを面白く読ませてもらいました。
http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-217.html

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