SpaceFわひね(wahine) 

一人ひとりが思いを、あるときは共有し、あるときは自由にたゆたう。。そんな場所をめざして 

2012年

11月07日

(水曜日)

希望の国

希望の国をやはり見ておかねば何も言えないだろなと見てきた。

う~ん
やはり違和感が残る。
園子温監督の意気はストレートに伝わっては来るが・・・
フィクションとしてもっと違う形があったんじゃなかろか、と
言うは易いけれど。

避難区域20kmのラインが家の庭を2分してしまった小野家と
道を隔てて避難区域に入った向かいの鈴木家。
全てが理不尽な中で翻弄される鈴木家の家族の方に私は思いが及ぶ。
でんでん演ずる鈴木家の父親は半ば諦観しながらもどこか生々しい。

夏八木勲演ずる小野は昭和の父親像を体現して立派すぎる理想の姿。
ラストで認知症の妻を「愛してる」とかき抱き熱き“接吻”する。
いくら架空の場所時代設定とは言え、いくら切羽詰った極限とはいえ
年重ね昭和を生きた酪農家がこんな風にロマンチックな言葉を口にするだろうか?
そこまで追い詰められた人間のサガを描いたといわれれば
そうなんだろうと言うしかないが、興ざめしてしまったのは私だけか?

この映画の意義は大きいことは承知しているけれど。。。
急ぐあまりのストレートさに、フィクションで描く限界を感じるのは
園監督に
「福島以外で暮らす人や、言葉や理屈だけで原発を分かったつもりになっている人に、福島であの日何があったのかを追体験してほしいと思った。自分の庭が原発の半径20キロ圏の内と外に分断されることが、家族がバラバラに引き裂かれることが、どういうことなのかを。分かるのと感じるのとは違うから」
と言われる無自覚な人間だからだろう。

私が印象に残ったのは、
鈴木家の息子が、津波で家族を流された恋人と
津波跡を「一歩、一歩、一歩・・・」と数えながら歩くシーン。
先が見えない中で、自分が確実と思えるものを一つずつ数えていくこと。



コメント

●NO TITLE

いやはや、わたしも終始腰を浮かしながら(逃げ腰体制)で見ていた輩でごわす。

> ラストで認知症の妻を「愛してる」とかき抱き熱き“接吻”する。

のシーンでドン引きした。
あの映画を茶化すようで失敬極まりないのは承知の上ですが、わたしとは世界観が違うなぁ。。。というしかない。
園子温監督が描きたかったテーマとは全く別次元のことを考えながら、わたしは見ておりました。
「昭和の父」って、どうしてあんなに時代がかっているのだろう?とか、
昭和っていう時代は、劇場型人間を量産する風土があったのか?とか、
うーーむ、わたしの父親も切羽詰まったらあれくらいやりかねないな、気持ち悪いぞ...とかね。

二兎社の芝居『こんにちは、父さん』もそうでしたわね。
いや、あれは芝居だからまさに劇場型?
どっちにしても、「家族」に幻想抱き過ぎなとこが、わたしには逆に現実味を失わせるに十分でした。

●twitterでも

私はまだ観てないですが、twitterでもジェンダーやフェミニズムに詳しかったら違和感を持ってしまうのでは?という感想がありました。
それでも観に行こうと思ってますし、なぜ体制や戦争などの矛盾を描き、批判した男性による作品が、そういう批判を受ける要素を持ってしまうのかを自分なりに考えてみたいです。
観たら感想を話し合いたいです。

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