SpaceFわひね(wahine) 

一人ひとりが思いを、あるときは共有し、あるときは自由にたゆたう。。そんな場所をめざして 

2016年

01月28日

(木曜日)

香山リカのココロの万華鏡

毎週読んでいる真日新聞朝刊の香山リカのコラム、地味ながら「そうだよね~」とうなづくことが多い。

今朝はこんな話
「軽井沢のスキーバス事故は、乗員乗客15人が亡くなるという大惨事となった。乗客のほとんどは、授業の休み期間を利用してスキーに出かける大学生。同乗していて命は助かった学生、犠牲になった学生の友人など、多くの若者がショックを受け、心に傷を負った。

 このようなことがあると「すぐに心のケアを」といった声があがるが、災害、事故や事件などでショックを受けた人のケアでできることはそう多くない。というより、実は多くを必要としていないのだ。

 よく「傷ついている人は誰かに話を聞いてもらいたがっている」と言われ、ケアにあたるカウンセラーは「何でも私に話していいんですよ」などと語りかける。しかし、これは正しくない。あまりのショックで何も語りたくない、語る言葉が見つからない、ということもあるだろう。それでも「さあ、話して」と促され、ポツリポツリと話すと、「それでどうなったの?」「そのときどんな気持ちだった?」と根掘り葉掘りきかれる。これは実は、その人にとって相当に大きな負担となるのだ。ときには、その心に踏み込みすぎるケアが新たなストレスを生み、よけいに回復が長引くことさえある。

 それよりも大切なのは、まず誰かが静かに、近づきすぎないようにしながらそばにいて「必要なことがあったら呼んでね」などと伝えること。本人が「こうしてほしい」と言うまで、あまりおせっかいにあれこれ先回りしてやってはいけない。

 また、恐ろしいできごとを経験してしばらく思い出してはガタガタ震えたり、食事が喉を通らなかったりするのは、決して「心の病気」ではない。誰もが経験するあたりまえのできごとだ。ほとんどのケースでは時間がたてば、少しずつそれらは消えていく。ただ、回復のためには休養、睡眠や食事、仕事をまわりの人が肩代わりしてくれるなどのサポート体制が必要だ。

 だから、今回の事故のような場合に生存者や犠牲者の家族、友人の心のケアをしようと考えたら、まず必要なのは「話を聞きますよ」という言葉ではなくて、「食事できてる? 眠れてる? 何かあたたかい食べものを持ってきましょうか」といった生活サポートの言葉なのだ。

 事故でケガをした学生や亡くなった学生の友人たちが、食べ、眠り、おだやかに寄り添ってくれる家族や友人たちの支えを受けながら、時間をかけてゆっくりと元気を取り戻していけるように願っている。(精神科医)

 
ショックを受けている当人の周囲にいる人々は、なんとか助けたい、力になりたいという無垢な思いを持つ。当人は呆然としていても、周囲の人の気持ちには無意識に直観的に反応するように思える。その反応する気持ちを言葉に表す気力は出せず、周囲の気遣いに応えられない自分の余裕の無さにも疲れてしまう。そんなとき、直接的なたくさんの言葉より、気をそらしてくれる一杯のスープや一片の花に心がほぐれるかもしれないと、つくづく思う。

「話をただ聞いている」ということは実は容易ではない。ついこちらの思いを伝えたくなってしまう。先走って勘違い発言してしまいそうになる。「そばにいて寄り添う」ことはもっと大変かもしれない。相手にとって自分がどうい存在かが問われるかもしれないし。
鈍感でお気楽な私にはムリ、ムリ。オロオロしないようにするだけでいっぱいいっぱいだから逆に不安にさせてしまうよなぁ。。。
ただ忘れずにいる、ことくらいしかできないなぁ。。。「忘れない」ことも難しいか。やれやれ。。

2016年

01月20日

(水曜日)

アートな1日

ここ2~3日は全国的な荒れ模様の天気、東京でも雪が降っていました。

今日は休み、雪がそこここに残った都内へ。
目的は「ヴィオレット~ある作家の肖像」
ヴィオレットtop

たまたまこの映画の主人公ヴィオレット・デュリックの「女ともだち」という本(恥ずかしながら、彼女のことはほとんど知りませんでした)を目にして、そこに付された"シモーヌ・ド・ボーヴォワールの友人"というキーワードに興味をそそられ、検索してみると、なんとまさに今映画が公開されているではありませんか!
頼みの千葉劇場では当分の間公開予定には無いようなので、こういうタイミングを逃してはなるまいと、寒風の中出かけました。
行って正解、久々に見応え十分、冒頭から全く遊びがなく、ぐいぐい力技。「セラフィーヌの庭」の監督と知って納得。
映画の人物の関係性の構図も似ているかもしれません。
あくまで理性的な知識階層に属する人間と、彼らが持ち得ない直観的で根源的な才能の持ち主たち。
才能を見出す力を持つ人々と、見出されても自信を失ったり過信したり、時に才能を持て余し浪費したりするヴィオレットやセラフィーヌ・・・
彼女たちの混乱を極める圧倒的に強い自我に悩まされながらも、距離を置き冷静に支えることで、自己の欺瞞性を抱えながら自我を保とうとする知識人。。。

こんなに赤裸々に直接的で個人的な内面を吐露したものが、だからこそ普遍的であるということを寸時に見抜き「書きなさい」と叱咤したボーヴォワール、、、
「政治的なことは個人的なこと、個人的なことは政治的なこと」という有名なことばが浮かびました。

午後は、今日から始まった「はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション」
新国立 大原美術館2

後半の、戦後の作品や21世紀の現代アートの数々が素晴らしくて、大原美術館をなめてたわけではないけれど、儲けた!
グッズに好きな作品のカードがなくて寂しかったですが、思わぬ拾い物?!
大原美術館の有名なコレクションを Yu Nagaba デザインで復元?したカードが秀逸!
(岸田龍生の「麗子像」)
麗子像

2016年

01月15日

(金曜日)

変人好き!

この本がもっと早く出版されていたら、去年の夏のフィレンツェ滞在がぐぐぐっとさらに楽しめただろうと思うと、悔しくもあり恨めしくもあり。が、旅から戻った直後から今に至るドタバタで消えかかっていた記憶を呼び起こし、反芻し、ヴァージョンアップさせることができて、さらにイタリアへの旅を目論むよすがとできます。

偏愛ルネサンス美術館 ヤマザキマリ著
偏愛ルネサンス美術館0815f

ヤマザキマリが"変人"と呼ぶとき、そこには愛と尊敬の念があふれています。
ルネサンスの巨匠たちのみならず、世間的な評価はさほどでもないけれど、ヤマザキマリのおメガネにかなう"変人"たちが列挙され、変人たる所以が微に入り細に入り書かれていて面白い。美術史から軽んじられていても、ヤマザキ尺度では彼らの功績はとても大きくて現代につながっているのです(こじつけもあり?)
ルネサンスは、知性や教養、芸術的な創造性、自由な精神性を開いく文化や思想であって、これを抑圧したり否定する時代は、人間性が奪われ力を失う時代となったことは、歴史が教えてくれます。今またそんな不幸な時代に戻そうとする人たちが多くなっているようで、寒気がします。
内へ内へ向かおうとする現代人に、おおいにルネサンスの世界を知ってもらい、"変人"を愛し、許し、多様性や寛容性を育て、閉鎖的な状況を突き動かしていくことが必要だとあらためて感じ入りました。今年しょっぱなから面白い本に出会い、こいつあ春から縁起がいいわい!チョーン(柝の音)

ここに登場する"変人"たちの「変」ぶりは、周囲の状況や大勢とはかかわりなく自らの求めるところを追及する強さが半端ではないところです。私は「変わってる」とか「変!」と言われることに喜びを感じる性質ですが、比べるべくもないとはいえ、私のような矮小な次元ではないのだと、恥じ入る次第。。。

2016年

01月02日

(土曜日)

今年もよろしくお願いします。

千葉の元旦は初日の出が美しい晴天、穏やかな天候です。

年末、シルヴィ・ギエムのファイナルステージが生中継されました。2015-2016のカウントダウンコンサートで。

ギエム

ジョルジュ・ドンの、記憶に衝撃的に残っている「ボレロ」、ギエムのボレロは激しくも柔らかく、素人目には、超人的と思えるダンスで、観る者に溢れる躍動感を与えてくれました。
踊り終えた瞬間、ジャストタイムで2016年が始まりました。

公私ともに怒涛の昨年でした。今年はなるべく穏やかで少しでも生き易くなるように願いたいものです。
社会の雲行きがあやしい今、身の丈でできることを見据えていきたいです。
このblogでつらつらと書けることに感謝して。

今年が皆さまにより良い1年でありますように。

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